岩鋳のものづくりについて
市井の小さな鉄器工房からはじまった、岩鋳ものづくりの物語。
南部鉄器の名声が全国に響き渡っていた明治・大正時代を経て戦争による
製造中止や生活の変化など、いくつもの試練がありました。
それでも伝統という確かな土台があったからこそ、
私たちは挑戦し続けることができたのです。
市井の小さな鉄器工房からはじまった、岩鋳ものづくりの物語。
南部鉄器の名声が全国に響き渡っていた明治・大正時代を経て戦争による
製造中止や生活の変化など、いくつもの試練がありました。
それでも伝統という確かな土台があったからこそ、
私たちは挑戦し続けることができたのです。
市井の小さな鉄器工房からはじまった、岩鋳ものづくりの物語。
南部鉄器の名声が全国に響き渡っていた明治・大正時代を経て戦争による
製造中止や生活の変化など、いくつもの試練がありました。
それでも伝統という確かな土台があったからこそ、
私たちは挑戦し続けることができたのです。
創業者の岩清水末吉は明治20年(1887)、盛岡市山王町に生まれました。
父はくし職人でしたが南部鉄器の魅力に惹かれた末吉は南部鉄器職人のもとへ弟子入りしました。
ほどなく末吉は頭角をあらわし、業界でも腕の立つ技術者として知られるように。
明治35年(1902)、4年の修行を終えた末吉は市内で創業したのです。
鉄器づくりに励む末吉とそれを支える妻シゲの夫婦は2男6女に恵まれました。長男の彌吉は12歳の頃から家業を手伝いはじめ、7つ違いの次男・多喜二も兄とともに家業を盛り立てました。彌吉は父の職人気質を受けつぎ、多喜二の明るい気性が父とよく似ていたといいます。好一対の性格のふたりは役割を分担しながら、二人三脚で企業化への道を歩みだしました。
太平洋戦争は試練の時代でした。南部鉄器は奢侈品として全面製造禁止となったばかりか、すでに生産されていた製品までも供出されました。彌吉も多喜二も召集され、苦労を重ねながらも、決して鉄器の生産をあきらめませんでした。昭和25年(1950)には岩清水鋳工所を設立し、新工場を建設しました。
増産体制が整うとともに、彌吉と多喜二は販路開拓に取り組みます。北海道での営業により鉄瓶が爆発的ヒットとなり、今日に続く岩鋳の土台が築かれました。昭和30年代には生活様式の変化や合金類の普及に押され南部鉄器は減産を余儀なくされましたが、彌吉社長はいちはやく工芸品や日用品の開発に着手。機械化による大量生産体制を確立するために、市内川久保に新たな工場を完成させました。
高度経済成長の波や工芸ブームも追い風となり、昭和40年代には南部鉄器業界も息を吹き返します。川久保の工場ではベルトコンベヤー方式による量産化が進められ、さらに40年代後半には南部鉄器業界初のオートメーション化が図られました。この頃から製造工程の見学を積極的に受け入れるようにもなり、工場は盛岡市の観光コースの一つとして定着していきました。昭和49年には上飯岡に新工場が竣工し、鋳造から研磨までの生産ラインを持つ業界随一の飯岡工場が誕生しました。
当社が海外へ目を向けるきっかけとなったのが、多喜二専務によるヨーロッパへの巡航見本市への参加でした。岩鋳では3年の歳月を経てカラフルな色を鉄器に着色する技術を独自に開発し、平成に入り本格的に海外に乗り出しました。今までにないカラーリングはヨーロッパで大いに受けいれられ、フランスの紅茶専門店から「カラフルなティーポット(急須)を作ってほしい」との依頼が舞い込みます。現在では、ヨーロッパの小売店では「IWACHU」が鉄器の代名詞にもなっているほど浸透しています。
伝統の南部鉄器から、世界のIWACHUへ。挑戦は今も続いています。